千九百十五年の七月、自分が西班牙の一人旅を終つて、又巴里へ帰つては来たものの、割合に暑気に苦しむことの無い巴里でも、七月といへばさすがに夏らしい暑さはある。且自分の借りて居たフアルギユエールの小アトリエは、壁の半面がまともに強い西日を浴びる為めに、午後の半日は蒸し風呂にでも這入つて居る様で、とても此の中で仕事をする勇気は無かつた。久しぶりで帰つて来た自分の部屋が、こんな風で落ちつかない為めとモウ一つは、自分は最早帰朝の予定期が間近くなつて、あと三月許りの中にはマルセーユから船に乗らねばならないことだから、二た月や三月の間に戦争が終局について、ミユゼが開かれるといふあてもつかない巴里に止つても仕方がない。一層又田舎へ行つて、お名残りに一勉強して見ようといふ気になつた。 一日、同様に夏の間田舎行の希望を持つて居る足立君のアトリエの中で、地図を広げてブルターニユ方面を、いろいろ詮索して見たが、田舎旅に不慣な二人は、なかなか場所の選定が着かなかつた。さりとて巴里に於ける先輩は、みんな戦争以来相次いで帰朝の途についたあとである。兎も角北の方の海をさして気軽に出掛けることに、策を立てたのであつた。 七月も既に半ばになつた。巴里街頭の並木の樹蔭には、妻君達が並んで編物の手を働かせている。僅か残るマロニエの花片が、折々風に誘はれてひらひらと散る、美しく静かな巴里の夏も之れで自分は見納めになるのである。何だかなつかしい気をのこして、自分等はモンパルナツスの停車場（ステーション）をはなれた。 自分等が買求めた切符の行先、ブルターニユのパンポールヘ着くのは、随分と永い時間であつた。途中から降り出した雨が、午後になつて風を交へた為めに、パンポールヘ下車して街の海岸を見歩く間に、服も靴もひた濡れに濡れてしまつた。でも自分等は、割合に面白い北の辺の風景や風俗に接して、想像のあまり外れなかつたことを喜んだ。何でも此の辺の田舎家に下宿をさがさうといふ気になつて、づぶ濡れになつて二時間許りあちこちさがし歩いたが、あまり気に入りさうな家が見つからぬ内に終に暮れてしまつた。で街端れの木賃宿の様な家に一夜を過して着物を乾かすことにした。だが、早く落ち着く処の定まらぬ内は何だか不安心なので、二人は再び街へ出でて此の辺の細かい地図を買ひ求めて首を集めたところが、ブレアといふ島が此の海岸からすぐ近くにあつて、それが割合に画材にも富んで居るらしく、避暑客などの為めの宿屋をも持つ島であることが分つた。又幸に饒舌（おしゃべり）の此の宿屋の娘の口によつて、それが一層確かめられた。そばかすだらけの此の田舎娘の言ふことが、自分には随分分かりにくかつたが、それは近辺の其処此処を引例して、要するにそれ等は宿の値段がないから、少し景色が不満足でも、此のパンポールに足を止めて、自分の家に泊つて仕事をしろといふのであつたが、彼の為めには不幸にも、それが我々に島の方へ点じさせる決心を与へてしまつたのは、気の毒でもあつた。 翌日から自分等はブルターニユ北端の小島ブレアに足を止めることになつた。オテル、ガスパーの二人の日本人の旅行客は、此の島でも他の仏蘭西内の例と同じく、直ぐ村の役場に在留証を求めに行つた。それは面倒なことであるが、戦時の止むを得ない法令であつたから、自分等は、兎も角も島の様子を一と通り見歩いた序に、役場に寄ることにして宿を出た。 村の中位にある自分等の宿のうしろは小高い丘であつた。宿の庭の花畑の背後（うしろ）からすぐ其処へかけ上れた。自分等は先づ此処から展望した。此の島が径（さしわたし）一里に充たない島であることは、四方に起伏する麦畑の黄色い丘、青草の牧場、其の間に点在する高低の風車小屋や農家などが、皆んな先は蒼い海を背後にして居るので知れた。遠からぬ一段小高い丘の上に寺があつて、下の草原には無数の羊が草を喰つている。段々畑には農婦などが今麦を刈つて居るし、小径（こみち）には村童が、車の輸の様な形のパンを肩にかけて、犬に戯れて居るのなどがある。先の方の海に突き出た岩上には、パンポール辺の商人の穏居家ででもあらうか、門は固く閉ざされて、夏の日をうけて居る淋しい景も見える。一体に続く丘の麦畑も、セエヌ沿ひ辺りの村々の近辺とは違つて、何となし荒れた激しい気が充ちて居る。自分は此の丘上の眺めだけで、此の島は画材の多いところで、又何となく日本の景をしのばせる様な淋し味を持つた景であると思つた。 丘を伝うて、丘又丘と続く村の間を歩くに従つて、此の島の景は様々な変化を持つことを、我々は目的の為めに大変嬉しく思つた。そして今まで外の人達に聞いて居たブルターニユの景とは異つた別趣の景でもある。而して村婦等の風俗は僅かに帽子がブルターニユの特風を持つだけで、衣服の方の面白味は此の島の風俗には見られないことも分つた。此の始めの日の我々の印象は、ブレアは景を描きに行くによい処で、風俗の興味には外を選ばねばならぬ処だと、今日でも思ふことである。 自分等が村役場に在留証を求めに行つた時は、一人助役が机に向つて、何か書いて居たのであつた。外の田舎と同じく、此の役場にも村長と助役との古ぼけた机二脚の上に、数冊の帳簿と、ペンとがある外、何の装飾らしいものも無い。此の日助役さんは、今日村長が不在である為めに明日来いと云つて、我々の国や、職業を聞き取つた序手に話をした。そして我々は此の島に二十年前黒田氏や久米氏が来られたことを知つたのであつた。助役さんは其の頃未だ子供であつたこと、其の後日本人を見なかつたがお前達が来たと云つた。そしてブレアは美しいところだから、沢山仕事をして帰れなどとつけ足した。何だか我々は此の助役さんを大へんなつかしく思ふ様になつたと共に、暢気らしい様は戦争中とも思はれなかつた。 自分などの宿には、自分等の外に女学生が二人と、負傷後保養中の士官が一人泊つて居た。避暑客ではあるが、食堂で気の置ける人達では無かつた。彼等の方が、我々より寧ろ不行義で、食堂で喫煙もするし、食後に戯れて腰かけを引くり返す様なこともあつた。若い士官は窓から食堂へ飛び込んで来たりしたから、こちらも安んじて戯れたりした。田舎はあまり気が置けないでよいと思つた。 自分は何枚かの島の景色の写生が部屋に掛かる様になつた。足立君も隣りの部屋に掛け並べた頃は、八月も末になつて、此の北海の島の気候は、朝晩は冬服でも少し涼しかつた。雨の日には部屋が暗いのと寒いのとで、寝台の中にふとんをかぶつて半日を寝てしまうか、眠らずとも、巴里の家主から廻送してくれる本国の新聞を、寝台の上で読んで居ねばならなかつた。然し激しい旅の中でかう云ふ日のたまにあるのは楽しみである。殊に自分の様に外国に住み慣れない、単なる旅行者には此の感が深い。 毎日トアールをさげて写生の出かけには、喫煙好きの自分は必ず煙草屋に寄つて、マリランの一包を買ふのであつた。時には朝買つた一包が帰りには無くなつて、又寄ることもあつた。従つて煙草屋は宿に次で村での親しき家となつた。質朴な田舎の常として、時には黄色の包のマリランが売り切れて、下等のでなくてはならないことなどもあつた。幸にパンポールの方から届くと直ぐ、煙草屋の娘は態々宿まで持つて来てくれたりした。 自分は来月巴里を立つて、リオンに向ふ用意の為めに心急かれて、こはれた風車の景の写生を此の島の最後の仕事として、薄寒い冬服の襟をかき合はせつつ、此の島に分れたのであつた。恐らくいル・ブレアに再び遊ぶ様な機会はないであらう。（大正六年八月・中央美術） |
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