関東在住の人々の、誰にとつても、今年の秋ほど不幸な秋は無かつた。美術家には割合に、下街に住んで居る人が少なかつたから、東京でも横浜でも、火災に遭つた人は少いやうであつたけれど、精神生活者にとつては、物質の焼失したことより以上に、人心の騒々しさは随分と利いたやうである。 中野に住んでいる私などは、幸に地震の被害も少いし、火災も無論免がれたから、今度の災厄者に比べれば、殆んど口にすべき程のものでない。それにも係はらず、何となし此の二月余りの間は、未だに仕事が手につかず、騒がしい、不安の中に日を暮らして居ることは、恐らく多くの文芸美術家諸君と同じやうに、御多分に漏れないことなのであらうと思はれるが、とりわけ平常から、今度のやうな大地震は予想したことも無いに係はらず、ひどく地震が嫌ひで、恐ろしがる性質の私は、其の後引続いて来る時々の余震に、おびやかされることも甚しい。誰でも蛇を好く人はあるまいやうに、地震や雷や火事を好く人はあるまいけれど、どういふものか私は、雷よりも、火事よりも地震を恐れた。火事や雷は、まさかに二三分の時間内に、直ちに生命を襲はれるものとは感じていないが、地震ばかりはさうは行かぬといふ疑惑もあることだらうが、兎も角私は、本能的に恐ろしいものに観じて居る。平穏な時分には、地震は地面の中で、鯰があばれるんだと、世間話に滑稽味を添へる材料になつて居りながら、本当に鯰が地中にあばれ出した其の瞬間に、忽ちそれは恐ろしいものに代つてしまふ。地が動く。各々が立つて居る地が忽然として動き出した瞬間の感覚は、全く恐れねばならない。 其の日、九月一日に私は朝からの風雨が、郊外の高地であるせいか、かなりに当りが強くて、暴れ日といふ感じであつたから、縁のガラス戸を締めて、庭の樹木の風雨に動く様を見て居た。余り強くもない風雨に、樹木の動く様は随分と面白い感じを現ずるものだから、広からぬ庭であるけれど、少しばかりの樹木と空地に咲かした草花が吹きなびく様を見ながらも、それをいたむ心よりは、矢張りそれの野分に吹きなびく様の面白さの方に気をとられて、十一時頃までの暢気な朝を過していた。さうして斯ういふ日の前後の気持は、画家の手にはおへないものがある。矢つ張りよい俳人の手に任せる方がよいのか、などと一人黙々と縁に立つて居たが、今日は上野の展覧会の招待日であつたことを思ひ出した。正直のところ前夜までの私は、頭の中に「明日は二つの展覧会の招待日だ」といふことを、はつきりと記憶して居たが、朝起きて見てからの三四時間それを忘れて居たのだつた。 風雨が止んで時々薄日が出るやうになつたものだから、何だか蒸暑い頭の重い日だけれど、午後になつたら上野へ行つて見ようか考へ考へながら、当てにならない茶の間の時計の時間にはかまはず、兎も角昼飯を喰ふことにしようと思つて、食卓の前に坐つた時だつた。不思議な動揺が体に感じたと思つた直後に大きい地震が来た事を直覚して、家人を擁して庭へ飛び出してしまつた。私は庭の一本の柘植（つげ）の木の下が一番の安全地であるらしく感じたものだから、いきなりその樹幹に、四人の家族がつかまることにした。 幸ひにして私は、恐ろしい動揺時間の大部分を、屋外の樹幹につかまりながら過すことが出来た。 それから震災地の多くの人々と同じ種々様々な不安な日を過して来た。二月余りを経た此の数月来、漸く中野付近の秋の過ぎ行く有様が目につくやうになつた。未だ霜の来るには間があらうけれど、一二丁先の農家の欅の葉そろそろ西風にふるひ落されさうになつたのも目につく。二月ばかり気もつかすに居たのだが、家々の垣根の中にコスモスの花が可憐に高く咲いて居るのも目について来た。時々の夜巡りの番には、古外套を引き出して着るやうになつたし、壁のこわれや、口の空いた部分から吹き入る明方の寒さを感じて来た。先づ壁に紙を張り、落ちた部分の瓦を上げて風雨をふせげば、郊外の此の秋は幸福である。（十一月五日） （大正十二年十二月・みづゑ） |
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