夏のスケツチ 平原の一夜 十和田湖を見ての帰途、平泉に立寄つたのは、八月の始め随分暑い頃だつた。あの小さい停車場に、夜の八時か九時かに着いて、かねて聞いていた駅前の旅宿、「平泉にはよい宿が無い。駅前の宿はひどい宿だが、其処に泊るより外ない」と聞いて居だ宿へ着いたが、如何にも暑い。東北も夏は暑いのだ。十和田湖が割合に涼しかつたので、殊に暑く感じたのかも知れぬが、宿は夜が更けて居るに係らず、二階も下も明け放して、二階のあちこちには蝿捕り紙が幾つもぶら下つて居るのが先づ眼に着いた。蝿捕り紙のぶら下つて居るのを見ると、如何にも暑苦しい感じがするものだ。私は平泉といふところが有名な古跡であるに係らず、かういふ宿しか無いことが、何だか大へんなつかしい親しい感じがした。これが停車場からモツトはなれた、田圃の中にでもあれば猶更よいのになどと思つたが、兎に角東北の田舎宿らしい気分は、旅行者にとつて、不便やら、むさくるしいやらを超越した面白さ、その野趣満々たる宿に一夜の眠りを過すことにした。 私は二階の一間に通されて、先づ汗に儒れた洋服を脱いだが、風呂は今夜は無いといふので、浴衣を借り団扇を借りて、数日十和田湖畔を歩き廻 つた疲れ、汽車旅の疲れを休めた。そして未だ夕飯を喰つて居なかつたので、その用意をして貰ふことにした。 夕飯の仕度を待つ間、私は一室の真ん中に団扇を持つて寝ころんで居たが、室電燈を目当に飛んで来る無数の虫が、払うても払うても飛んで来る。電燈の笠には真黒くなるほど虫がついて居る。成る程これは蝿捕紙の満艦飾も無理のないことだと思つた。 それで私は、漸く仕度の出来た夕飯を、先づ女中に蚊張を吊らせて、その中で喰ふことにした。一本の地酒を傾ける間、蚊張の臭ひが鼻についたが、それでも空腹で此の野趣を味はうことが、反つて都に美酒を飲むよりも、どんなにか美味に感じたことだつた。然し生れて蚊張の中で酒を飲んだことは、私の始めての経験であつた。それだけにその時のことは忘れ難い面白さとなつて私の心に残つて居る。 夕飯の膳に一皿の煮付け魚がついて居た。その皿の魚は、大小三四種の川魚らしい魚だつたので、平常川魚好きの私は、 「之れは御馳走様だ。こんなに遅く来て御馳走して貰うてはすまぬ」 と言つたら、女中は、 「此の魚は今日、泊り込んで居るお客さんが釣りに行つて、捕つて来たのであります。今夜は外に何も無いので、その雑魚の煮付けで心棒して貰ひます」 と、言つた。幾日か泊り込んで居るお客が、徒然に釣つて来た魚だと言ふ。魚屋から買つたので無いから、相済まぬといふ心であらうが、それを釣つた人は、既に一日の釣りの楽しみを済ましたことなら、誰れかがそれを喰べてやることは、その人も喜ぶことだ。 「それは一層御馳走様で。結構々々」 と、言つて、私はその塩からく煮付けた雑魚を肴にして、地酒の酔を呼んで寝てしまつた。明日は一日、 「夏草やつはものどもが夢の跡」 を訪ね廻ることを楽しみなから―― 越後の杉 私はまだ越前越中を知らず、加賀能登を知らない。北陸では越後を知るのみだ。会津から越後に入り、又越後から今治を廻るといふ旅を両三回したのだつた。 私は会津から出て、越後に流るる阿賀川に沿うた山景を、接する毎に美しく好んで居る。 始めてその辺の山景を見たのは、もう随分以前のことだ。越後の津川といふ山駅から一里ばかりを、此の川に沿うて遡つたところの河畔に、少し許りぬる湯が湧く為めに一軒の湯宿かある。私は其処に一と夏足を止めたのだつた。眼前の山は、どれもこれも杉の木立におほはれ、此の孤屋の直ぐ下を阿賀川の清流が流れて居た。山中の湯宿の客は、近所の村人かあるのみだから随分汚い家であつたが、私は山河が静かで人情の質僕なことを喜んで、其処で仕事をしたのだつた。特に私は其の辺の山樹の杉林に画趣を覚えて、幾枚かの書面を得たのだつた。それまで私は杉といふ樹木にはどうも書趣を感じなかつたが、越後の杉に接して、始めて深く杉といふものの画的面白さに触れたのだつた。 其の後同じ村の村杉といふところ、此処も僻地の温泉場ではあるが、其の地名の示す如く、杉の樹立の中にある湯宿に旬日を過したが、其処は山でなくて里であり、之れから山にかからうとするところに在る一と村、其処に湧くぬる湯を沸かし、その浴場を囲んで、数軒の湯宿が、何れも見上げる様な杉の老樹の下にある。軒先も杉の林、浴場へ通ふ路の両側も杉の並木といふ風に、村の樹木は殆ど杉に限られたかの感がある。その為めに此の温泉場は、何となしうす暗く、閑寂な気に充ちて居る。杉の樹立の中の湯宿と聞いただけで、如何にも陰気なやうに想はれるが、それは実際には陰気の暗さではなく、閑寂な味ひであつた。田舎びた中に程よく開けて居るのもよく、入浴の帰りに芋や柚子やを買うて来て、自ら酒の肴を造るといふ風に、悠々たる野趣を味ふところだつた。私は此処に旬日を過す内に、杉の樹立の中の閑寂さを味はうことが出来た。関東あたりの杉は、山にしろ里にしろ、あまりそれまで画趣あるものとも味ひ深いものとも感じなかつたが、私は越後の山や里の杉に接して、杉の樹立といふものが好きになつたのだつた。 （昭和五年八月・祖国） |
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