近年私の無精は、もう通り者になつてしまつたが、自分ながらあまりの無精にあきれることもある。秋のよい季節にぜひ山陰地方の旅行をしたいものだと思ひながら、もう三四年経つてしまつたのなども其の一つだ。何も秋に限つたことはなく、いつでも都合のよい時に出かけたらよい訳だとも思ふが、其処が無精者の常で、どうしても最初に思つた季節に心がこびり付いて居て――といふと体裁がよいが、其れへかこつけて居て、生憎出かけられない秋毎を過しつつある始末だ。 尤も之れも、我田引水になるが、引込み出すと出かけるのが臆劫になるのは、あながち私一人でもないやうだ。昔は私も相当にまめに、気軽に旅行をしたものだつた。二年足らずの旅であつたが、西洋から暮れに帰るともう翌年の春から夏には、九州の旅行に二た月余りを費して居た。出かけ癖がつくと家にくすぶつて居るのがつまらないので、次から次へと出たくなるものだつた。よく一廻り銀座を歩いて来ないと寝られないといふ若い人の話しを聞くが、それに似たことであらう。 ところが近年全く、自分ながらあきれ返るほどの出無精者になつて居る。時々之れではいかぬから、今度こそ出かけようと発心する内に、風邪に犯されたり腸をこはしたりして、又ぐづぐづになつてしまふ。実のところは、昔のやうに宿屋の寝具などはどうでも眠れた、喰ひ物などは何んでもさして腹もこわさなかつた、といふ時と違ひ、今の自分は山の宿屋などの寝具や食物には全く困り入ることが多い。忽ち風（まま）をひいたり、腸を痛めたりする次第だ。何も決して贅沢をいふではないが、日本の田舎の宿屋は、全く衛生のことに無関心なところが大部分だ。さればと言つて都会式に三つの指を突く女中の居るやうな宿屋は勿論好まず、こちらの希望は唯心置きなく出入りが出来て、軟かい飯に、其処で容易く得られる魚でも野菜でもを出してくれて、温かいふとんに寝せてくれればよい。ところがなかなか自分等の選ぶ景色と気分とのよい自然の中に存在する宿屋には、極めてさういふのは少い。近年の自分のやうな健康状態では忽ち腹をこはしたり安眠出来なかつたりする。それで兎角何処へ出るにも、先づその予想がつきまとふ。申訳けのやうだが之れが出無精たらしめる一つの原因でもある。 大体私は食物に嫌ひは無い。唯自分の健康の事情から近頃は消化のよいといふことが食物の第一条件になつた。次には嫌ひなものは無いが好むものはある。その好むものには、ありつければありつきたい位の程度だ。然し之れとても季節外れ、土地異ひのものを自分は美味と思はない。仮令ば自分はさしみが好きだが、山の宿屋で海魚のさしみを出されたり、冬の季節に胡瓜や筍の御馳走をされても決して美味ではない。幸吾々が見に行くやうな景色の中に散在する田舎の宿には、さういふ風な不自然な食物は無いから助かるやうなものの、如何にも私の腹工合などにば不適当なものを出されるには閉口する。特に山の宿が甚だしい。それは恐らく彼等山人にあつての自然であつて、自分の健康状態を土台にしてのことで、客の健康に無関心なことから来るのだと思へば、その素朴を愛する念は、生半かに都会の真似をして、湿り臭いコーヒーなどを出されるなどに比すべくも無いが、私の願ひば、唯何とかしてその素朴の儘で、モ少しこちらの健康状態をも考へてくれるやうに、田舎の宿がなつて欲しい。然しそんなことを言つても、田舎の状態が急に変ることもあるまいと思へば、先づ先づ自分の無精心を鞭つて勉めて出歩いて、こちらの健康をよくするが上策かも知れぬ。で私は此の頃数日分の食料を携へて出掛けることを試みようとして居る。さうすると食物に出先きの野趣を味ひ得ぬといふことは残念に思ふが、さういふ方法を採つて自分の弱い胃腸を順次に慣らすより仕方ないと考へたからだ。大正六年を迎へる自分が自分に鞭うつ心は、何よりも先づ近年続いて居る無精気を追ひ払ひたいことだ。 之れもいささか無精気を追ひ出す心で、用事を何かとひかへた中を、此の頃折々新宿や銀座へ出かけて見るが、行つて見れば悪い気持はしない。雑沓の中といふものは非衛生には違ひないが、気持を明るく点じさせるので、決して悪い気持はしないものだ。私はその混み合ふ鋪道、とりわけ新宿の街と来ては、時には堪へられぬほど混雑する人の数だが、その中を二時間位歩いて見る。一つ一つのガラス窓を覗いて見たり物価の札を見て歩いたりする。そして物の価が安くなつたことを驚きもし又嬉しいやうな気もする。とりわけ私の目につくのは、喰ひ物屋の飾り窓に示される価の安くなつたことだ。兎角食物のことに話が外れて恐縮だが、前述のやうに私の食味には嫌ひなものは殆んど無い。（実は数年前まではふぐとなまこを喰はなかつたが、数年来なまこは好物の一つになつてしまつた。ふぐだけは生涯食ひたくない。之れは胃腸の弱いくせにいぢのきたない者の心として、とうとう彼奴も喰ひ物でやられたかと言はれることの心外さを思ふからだ。）私は寧ろ世間の人、とりわけ郊外住ひの気取つた奥様連の馬鹿にして居る安価なものを、工夫して美味く消化よくして喰はうなんといふ道楽気さへ持つて居る。私の此の道楽は、自分の食事には家族の手を煩はさぬこともしばしばある位だ。東京のやうな田舎人の掃き寄せの都には、到底上方のやうに洗練された料理は無いが、唯西洋料理だけは近年発達の著しいことが兎角目につくものだから、街の飾り窓に出て居るものだけでも感じ得るやうになつた。そして数多くのさういふ窓の見本を見ると、一寸喰べて見たい気を起させる。その次は支那料理であらう。之れも随分と増加したものだ。とりわけ私が感心するのは此の頃の西洋料理が、日本化されたことだ。昔のは料理の混合的日本化だつたが、此の頃のは全く化合的日本化になつた。此の頃はなまなかモダーン気取りで、欧米其のままの料理をする家などより、日本の洋食を出す家の方が遥かに美味で安価の感がある、吾々のやうな貧乏人が此の頃外出して空腹を充すには、一番洋食が簡単で美味になつたのも面白い現象に思はれる。但し之れは束京のことであるが――、兎も角私は銀座や新宿、時には丸の内などを歩いて喰ひ物見世の前に立つ毎に、洋食だけは外でやる方が簡単で美味だと思ふ。家庭で少し許りじわじわやるのでは到底駄目な訳だ。それと反対に和式の喰べ物は家庭でやるのが一番うまい。之れはうまいといふ中に自分に適した食味と衛生手法を加味するからだ。吾々のやうな職業者にとつては、毎日の食膳に衛生考慮が加味されぬでは、忽ち病気を覚悟せねばならぬ。特に私のやうな者にあつては、衞生第一の食味感だから、食物を談ずる本当の資格は無い訳だが、自分の勝手な考からすると、私は支那料理に発達された衞生的手法が、大いに日本料理に加はると、最もよいかに思はれる。遂ひ二ケ月ばかり前に或る人に招かれて、支那の精進料理を喰ぺた際にも、つくづくさう思つたことだつた。満腹して然も腹に持ち越さないと云ふ支那人の伝統的料理法は、食味の上と衞生の上から言つて、全く世界に冠たるものに思はれる。日本の宿屋の食物なども、どうかして衞生にもつと心を用ひて貰ひたいものだと思ふ次第だ。 無精話しが遂ひ喰ひ物話しに筆が脱線してしまつて、恐縮の至りである。 （大正六年一月・MIROU） |
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