一 去年は遇然にも、初夏から秋にかけて、近年稀な旅行をした年であつた。何れも数日の短い旅であつたから、何もまとまつたものは描けず、徒らに手帳の幾枚かづつを汚したに過ぎなかつたが、私としては近年珍らしい三四の山旅をしたことや、その一つなどは、青森近くの十和田湖のやうな、東京からは随分遠い旅だつたものだから、特に旅行をしたといふ気持が残つた訳だつた。 一体私は旅行を好む性分でありながら、いろいろ身辺の事情やら、健康状態やら、又制作上の都合やらから、遠い旅行をすることが、近年ひどく億劫になつて居たのであるが、矢つ張り出て見れば旅行は面白い。私のやうな制作気分の所有者には、始めて接する山河が直ぐには親しめず、従つて落ちついてそれを描くことも出来ないが、然し矢つ張り面白い。制作都合などといふ気持を取り去れば、いや全然取り去ることは出来ないにしても、知らぬ山河に接するといふ楽しみ、つまり見るといふことを主にして旅行をすれば、深い自然には或は接し得ないにしても、変化ある自然に接する興ある旅行は出来る。知らず識らずに自分の眼も心も肥やし得る。又画室に籠居する日が続くと、兎角うどんやパンばかり喰つて居ねばならない自分の健康状態も、草鞋がけの山旅などによつて、よい結果を得ることは勿論だ。之れはいつでも自分で分り切つて居ることで、不意に無目的に、一二泊の旅を私はよくしつつあるのだが、唯一昼夜も汽車に乗るといふやうな遠い旅になると、何だか雑然といろいろのことが気になつて、どうしても出掛けるのが近年億劫で仕様が無かつた。 「そんな知らぬ遠方へ行つたからとて、落ちついて描ける訳でもなし、第一知らぬ人に会ふことは気づまりだ。加之押しの強い宿屋の主人から画帖に一筆を強ひられたり、疲れて居る晩食後の休養時間に、拙い日本画や乱暴な油絵を強請的に見せられるのはつらい。雨もりのしみのある石版刷りの天神様の掛け物が、ぶら下つて居るのなどを見ながら、一本の地酒に陶然たることを楽しむやうな野人旅心の自分には、拙い遊歴画の立派に仕立てた掛け物だの、態々額ぶちへ入れて来て『批評して下さい』と言つて、宿屋の座敷へ持ち込まれるやうな暴乱な油絵には、全く楽しい旅心を暗くしてしまふ。だから遠方の旅行は億劫だ。」 と、斯ういふ心が此の数年間、かなり旅行好きの私の性分の妨げとなつた。さうして息抜きに旅行をするにしても、行きつけたところへ行くか、何も知らなさうな、奉納手拭のぶら下つて居る宿屋を選んで、文字通りな「心気点換」の旅の目的を達しようとする。 だが、東京といふ都から遠い町の宿屋などになると、自分の様子が分らないから、ひどい宿屋へ泊るのは不安であるし、土地の人の案内で泊るやうなこともあつて、自然其の町での相当な宿屋へ泊ることになる。まさか奉納手拭のぶら下つた未知の宿屋で、合ひ宿をさせられるのもつらいからだ。昔は、 「すみませんが、お一人さんお合ひ宿を願ひます」 と、言つて、女中が案内して来た男が、存外面白い行商人などで、反つて寬いだこともあつたけれど、此のせつは、こちらが我儘になつたのか、さういふ行商人などに生いき者が多くなつたのか、兎も角知らぬ男と一つ座敷へ合宿することは、面白くないことが多い。 本来ならば、行衞定めぬ旅の宿に、知らぬ男女と合宿して、さまざまの旅の話しに夜を更かすことが、旅人の楽しいことに違ひないのだ。昔から旅好きの人は多くさうであつたやうだ。「一つ家に遊女と寝た」昔の詩人が、長い旅中の詩心を肥しもし、旅情を慰められもしたやうに、思ひもつかぬ他国の人と、偶然の合ひ宿をして、夜の更けるをも覚えず、旅の話しを聞くといふことは、詩情をもつ旅人の、どんなにか面白いことでもあり、心を肥すことでもあるに相違ないのだが――さういふことを私は思ひ、充分承知して居るつもりの私が、扨て遠国の旅宿に着いて靴を脱いだ時の気特に、何やら少し臆劫なものが生じることを予想して、近年さういふ旅行に遠ざかつて居るのは事実だ。 つまり、一つ座敷に合ひ宿を求められるやうな宿ならば、画帖に一筆を強ひられるやうなこともなし、暢気に脚を投げ出して寬げる訳なのだが、此のせつさういふ宿への泊り客が、どうも昔しの書物で見るやうな、楽しんで雑談の出来るやうなお客がめつたに無い。自分に俗情がひそむのか、自分の画欲が衰へて居るのか、或は又自分の性情には、古来の詩人のやうに、「随所に楽しむ」といふ大きい心が訣けて居るのか。としばしば反省もして見るが、結局気の小さいせいか、実際に厭やな思ひにぶつかると、それを切り抜けて行かうとせずに、それに遠ざかりたくなるのだ。 時勢が悪いのか、自分が悪いのか、旅に自然を楽しむことは、自分も昔の詩人に劣つて居るとは、ひそかに思つては居ないが、想像される昔の詩人のやうに、旅宿の楽しみを覚えることは、今の自分には誠に少い。 尤も私が、自分勝手の理屈をこねれば、其処には、詩人の旅と、異人の旅との何処やらに相違があるのでは無からうかとも思はぬでもない。西行の旅も、芭蕉の旅も、蓑笠に草鞋の旅であり、大雅の旅も無論さうでありながら、大雅の旅中談といふものは、あまり伝はつて居らぬやうだ。何れも旅行好きの是等の詩人画人ではあるが、其処に詩人と画人との、実際上の何物かが横はつて居はしまいか。仮令ば画人大雅にして見れば、昼間幾里かの道を歩いた上に、随分写生にも手間取つて、疲れ切つた頭と脚とを､やうやうに旅宿の一室に休めやうとした時に、あまりにいろいろの旅人の世間話しなどは面倒臭く、早く一人寝てしまつたやうなことも想像され得ることだ。画人にあつては、詩人のやうに、さういふ旅人の世間話しも自分の作欲を充たす足しにはなり得ないからだ。画人だからとて、さういふ旅中の面白さは、充分に感得するにしても、それは山河の自然に昼間眼も疲らさずに過した気楽な宵の軽い楽しみの場合だ。――さういふ実際上の相違があり得るといふことを、私は自らの性分から割り出しても見られるのだ。大雅のやうな大きい人は、そんな性分の持ち合せは無かつたかとも思ふけれど――。 兎も角、近年の私は、行き慣れて、自分の性分を知つて居てくれる宿屋の方が、万事に都合もよく、気持も楽なものだから、ちつと仕事をしようといふ目的のある時は勿論のこと、一寸した息抜き旅行の場合には、兎角さういふ手近に足を運びつつあつた訳だが、然し、それは全く、自分の好む旅心を充たす訳には行かない。 （昭和三年一月・中央美術） 二 誰れでも暫らく旅行をせずに居ると、鳥渡出掛けるのが臆劫になるのは事実らしい。出掛けてしまへば何んでもないことも、出掛けずに居るといろいろ気にかかつて臆劫なものだ。かなり旅を好み楽しむ自分でさへ、さうなのだから、世の中には生涯に泊りがけの旅行は、伊勢参宮を一度したぎりだといふ人のあることを聞いても、私は差して不思議には思はぬやうになつたが、然しまさかに画家はそれではいけない筈だ。よし生涯の仕事が、人物画に終始する人であるにしたところで、画事の根元は、人物だからとて風景だからとて同じことだ。風景を写生せずとも、風景を見るだけでもよいことだ。「風月に心を養ふ」などと古臭い事を言ふ訳ではないが、旅中風月によつて、吾々は何程かの心を肥し澄まし得る事は今更に言ふまでもない事だ。 「兎に角出掛けてしまへば、よいんだから」と、私は自分の心を引き立てることにした。人に誘はれたり、新聞社に景色紹介者として依頼をうけたりしたのを機会に。 それが初夏の六月から、秋の十月まで不思議にも後から後からと、旅話しが持ち上つたものだ。そんなことで去年は、ざつと半年ばかりの間、画室に籠つて、落ちついて制作をすることが出来なかつたが、つまり私のやうな性分の者は、旅行から帰つて、直ぐ画室に這入つて制作することが出来ない質だし、旅に出たからと言つて、一週間以内位の旅に、カンバスを持つて行つて、始めて接する山河に制作を得ることも出来ないものだから、始めての山河に対しては、スケツチブツクを汚して帰るに止るが、家に帰つて、一週間ばかりまごまごして居る内に、又次の旅話が持ち上るとその新らしい山河についての興味と、未見の地、未知の人事についての不安やがごつちやになつて、心が落ちつかないで又数日まごまごしてしまうといふやうな順序になるからだ。 だから私は、去年のやうな幾月かの日を過した事に就いては、自分の実際上の制作感念の中に、「旅は旅でよし、作るは作るでよし」といふことに心を定めた訳だ。 それは大へん心が楽で、旅の興味をとりあへず、一度餌溜め袋の中へ呑み込んで置いて、あとでそろそろ又出して噛んで見るより外仕方がない。つまり牛の物を喰ふ方法と同じことだ。今の私は自然さうなる順序だ。 去年の旅で、私は上州の白根山へ登つて久しぶりで火山を見た。又十余年前に、九州の天草群島を旅して以来の遠い旅でもあり、始めての秋田以北の旅でもあつた十和田湖を訪うて、幽寂な湖水の面白さに接した。之れこそ何事かの機会がなければ、人も我れも行くことは無からうとして居た、日本アルプスの玄関口まで登つた。さうしてあれまで登つて見れば、もつと上ヘアルプス登りをして見たいやうにも思つた。秋になつて、之れも始めての越後の方へ行つたり、信州の天龍峽へ行つたりした。 関東野人の自分の眼に映じた諸国の山河風月は、画的のものもあり、画的でなくて唯興趣だけのものもあつた。 （昭和三年二月・中央美術） |
 画生活より目次トップ |
 メール |
 トップ |