拝啓ながながと消息を打絶え申候。東京は御暑きことなるべく、御障り無之候や。巴里も漸く夏服に相成候へども時々は涼しき日もありて、街頭のプランタンの葉先が茶色になつたのを見ると、秋が来たのにあらずやと思ふことも有之候。巴里に入つて一月に近く相成候。変化の多い様な、無変化のやうな日を過し候。日本を出てから生存的にけおされる淋しみと、そして又それが芸術の上に幸するやうな嬉しさと、互々少し自覚的になつただけ此の二三日少し心に余裕を生ぜし様に候。未だ巴里の街頭に鉛筆を執つた日もなき程、異国人と自分との間に脈絡を欠き居り候。カルノアアやセザン等の画を見、田舎人に接し段々静まり行き候。街に出て自動車や馬車に追ひかけられ、逃げて場末の我がシヤンブルに一人草木に向へば、よい芸術家のことが心に浮み出でて、静かに喜悦を感ずる様に相成候。 前月中の丁度二十日間はルクサンブルのミユゼ、サロンフランセー、ヂアンルいル、ロートレクの展覧会、セザンのコレクシヨンなど一とわたり順覧致候。そして山本君と共に四日間一寸田舎に気を抜き候。昨日ルーブルのヌーボーコレクシヨンを観て、今日は一人ビラファルゲールに山本、シヤンブルに高村、足立、正宗及び小生に候。小生は今二階の正面の一室に時々南豆虫に喰はるれど、十文入れてひねれば瓦斯がつくと云ふアトリエよりは少し便利な室に、数度伊太利米を炊きて日本めしをやり居り候。米を喰ひたしと云ふことは全く習慣性の欲を充たすに過ぎず、経済的にも、手数の点にも不便のこと多く候。 画のことに就きては未だ充分に申上ぐること出来ず、現状のことは秋のサロンドートンヌを見ざればよく分らぬことに候。サロンフランセーは日本の文展を大仕掛にしたに過ぎず、一見した処文展の方が幾分俗気が少い位の感じさへ生じ候。大仕掛なる点は五千点の作物を一覧するはなかなか骨の折れることに候。ローランス、コルモンは既に老い、マルタンは荒み居り候。其の他は眼の下にホクロを入れた美人と云つた風なもの随分多く候。今年の銀賞のものも、全くテクニツクに与へたものにて此処には芸術は追はれ居り候。 此の間ロートレクの遺作を一覧致し候。珍らしき展覧会に会ひしは幸に候。これは特にお目にかけ候。彼が富豪の子であつた、コルモンの弟子であつたと聞いたばかりでは、其の芸術は到底推定致し難く、全く其れ等の名称から正反対の芸術を生みたるものに候。其の題は多く見世物の中、特にシルクの中など多く、女は屋根裏に住む娘、女房などを捉へ居り、卓抜な彼の皮肉はやさしい技巧のドローいングなどに最もよく現はれ居候。実に思ふままに下等杜会の人物を捉へて、彼のくせある形の印象は、はげしく人に迫り候。日本ならばいラストレーターだとか、出来上らない様だとか、下等のものだとか云はるべきものあるべく候も、かう云ふ真の芸術が認められるだけ、こちらには芸術の座席があるべく候。濁流滔々と流れる傍に、清流が細く流れて行くのは愉快に候。 印象派のものはザツト一とわたり一覧致し候が、後期印象派のものはまとまつた処なくまだろくろく見得ず候。印象派はデアンルいルに最も多く、火曜と水曜とに二時間ばかり見られ候。今度ルーブルに入つたヌーボーコレクシヨンは五十年間其の儘にする約束にて男爵いサツク氏の寄付せしものの由、此処にドガの多くが見られ候。セザンのものは威那（ノルウエー）の一貴族の所有にかかるものが最も観賞に都合よく、之も一週に四時間大使の紹介にて見られ候。之れ等の諸作は猶数々足を運ぶ筈に候へども、小生は画を批評的に見ることの愚をよくよく感じ居り候へば、好んで敬するか、好まずしてしりぞくかの直截な気分に相成り居り候。今迄一覧の中にて驚かされ候はドロクロアに候。小生は全く近年ドロクロアを忘れ居りたる形にて候ひしが、最初好みし此の人の芸術は、数段のチヤームを以つて心に迫り候。ローマンチツクの先駆と云ふ語は決して此の人の芸術の真を、伝へられなく存じ候。或はドロクロア氏それ自身が居たならば、「そんなものは絵の中の、何でもないつまらない分化」を今吾々が感ずるのかも知れず候へども、其処が芸術の不思議な処の様に候。ワツツの絵が一枚、サージヤントの絵と向ひ合つてルクサンブルに掛かり居り候。此の対象が実に不思議に候。構図の上からは無論サージヤントが新らしい絵の筈に候。ワツツは全く其の宗教的志想の発現のための絵であるべきに、それが女の内髄と云ひ、色と云ひ、全くサージヤントに比して遥かに芸術的に候。ワツツの絵を見てサージヤントの絵をふりかへると、其の高慢な態度にあきれ候。これば一例を申上げ候にすぎず、英吉利（イギリス）に行つて始めてよく分ることに候へど、印象派の人達がドラクロアを賛嘆せしは、其のアンデパンダンの部分のみにては無之存じ候。 印象派の中にては、小生はモネー、ピサロ、シスレー等を好まず候。モネーは華手な雄弁の絵に過ぎざる様に候。ルノアア、セザンの如き、敬虔の態度無く候。かう云ふことは作者自身にとつては主張でもなく、主義でもなく、全く其の人によることに候。セザン氏は何処までも静かに候。静かな内にあふるる温か味が、一本の草から一本の指頭にまで、及んで居る様に感じられ候。それが詩になり、哲学にもなり居り候。ルノアアは少し恐れを感じ候。其の女の絵は何処までも現在のやさしい女であつて、体であつて、それが神秘の境に到達して居る、実にチヤーミングの絵に候。筆はナヨナヨとやさしく、小さいタツチで、或るものは少しも筆あとも無い程にやさしい技巧に候。氏の絵は瓶にさしたバラの花も、女の肉体と同じチヤームを扱つて居る事に候。ルノアアのチヤームは私として酔はしめるチヤームではなく、泣きたくなるチヤームに候。誠によい芸術には乱暴な解決なく、主張もないと存じ候。もし主張の語があつても、それは自然を愛する熱語か、時としては反感もあつてのことの様に候。 ゴツホの絵は三枚ほど見しに過ぎず候。真卒欺かざる芸術に候へども未だ深く感ぜず候。此の間田舎の村にて少し鉛筆画を見申候。それは実に率直の画にて小生の好むものに候。マチスの絵は三四枚にて秋を待たねばならず候も、見しものは唯乱暴にあきれ候。モローも、シヤヴアンヌも何とも申上げられず候。 唯よい芸術が、本当に淋しい孤独が、カンバスの奥深くひそんで、それが自然と固い握手をして居るのは事実に存ぜられ候。小生はよい画を見るにつけ、下らない通信文を書くことは恐ろしい様に思ひて、何分にも書けず、出来るならば、少数の芸術について賛美したい丈が心持に候。或は間違つて居るかも知れず候も、段々御報は致し度候。（七月五日、平福百穂氏宛） （大正三年九月・アララギ） |
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