久しく転々の旅をつづけた私は、一昨夜深更、南からの直行列車で巴里に入りました。四月前に南への避難者が切符を求める為めに、一昼夜も立ち続けたのを目撃したガール・ド・リオンに、四月の後皆安心した顔色をして、旅客が悠揚とプラツトホームを往復するのを見て、戦争前程には成らなくとも、巴里も相当の賑やかさに返つたことを知りました。 始めて日本から来る者が、必ず此処に下りる縁の深い此の停車場を出でて、今年の初夏に始めて巴里に入つたときの様な心持で、僕は旅の荷物を馬車に積んで、セエヌ河を渡つて、旧居のフアルグエールに馬を走らせました。真黒なマロニエの幹は寒風の吹くブールバードに死んだ様に立つて居ますが、両側のアツパルトマンの窓からは点々と燈光の漏るるのを見、夜更けのツロトワールにも手を組んだ若い男女や、客を捜す密売婦の影の多いのを見ても、巴里の回復の程度を知ることが出来ました。僕が倫敦から南部仏蘭西にと慌しく通過した際の、同じ様な夜でありながら、両側の窓からは、一つの光を見ず、街は暗く、人通は無く、恰ど死んだ古都の様な巴里を思ふと、今は街燈は消してあつても、通行人のあるだけ、でも、市民の心の安じて、避難者の多くが帰つたことを知り得るのです。 僕は久しぶりで、巴里の家に入りました。もう寝室に入つた家主を起して鍵を持つて暗黒なアトリエの戸を閉けました。久しく主の無かつたアトリエは、薄暗いランプの影にまるで手の入らない物置小屋の様に散らかつて、そして暖炉の上にも卓の上にも真白な塵挨が積んで居るのです。私はこんなに荷物を散らかして出た筈では無かつたがと思ひました。さうかといつて家主が持つて居る鍵を得ねば入ることの出来ない此のアトリエに、誰れ一人入らう筈がないのであります。落ちついていた積りの私も四月前巴里を立退く頃は、一般の市民と同じやうに幾分の慌て方をして居たことを今になつて知つたのです。成るべく軽い荷物をと思ひながら、存外荷物の重かつた旅のことなどを思ひめぐらしました。 壁にかけた謝肉祭の滑稽面は皆逆さになつたり、横向きになつたりして、起き上つたままの寝台の上の毛布が、半分床の上にづり落ちてしつとりと冷めたくなつて居るのです。それでも久しぶりで、巴里に入ると多少家に帰つた様な気がして、自分の荷物のある部屋で、寝台の塵を払つて、冷たい毛布の中に潜つて一夜を安眠しました。巴里の冬は寒い、そして毎日薄暗い日が続くことを聞いて居ましたが、窓の隙間から入る冷たい風に眼をさまして、うす暗い硝子戸越しの光に時計を見るともう朝の十時なんです。 前夜の汽車が込み合つて、長い間北行の兵等と共に立ち続けて寒風に吹かれた為めに、風邪に冒されたと見えて、時計を見ても直に寝台を放れる気にならなかつたが、久し振に巴里に入つたといふ嬉しい心持で無理に床を離れて、水を汲むために下の水道口を出て、明るい周囲を眺めました。冬の巴里の多くの日の様にどんよりと曇つて、もう寒さは耳を切る様です。ビラ・フアルゲールのアトリエ、シヤンブルを一と眺めすると、柚木君の部屋の窓も閉ぢて居る。外に三人のシヤンブルとアトリエとは蔭になつて見えないが、日本人の外の窓も皆閉ぢてしんとして淋しく冷えた様な心持です。水道の栓には厚く布が巻かれて、もう凍らぬ用意をしてはあるが、水道栓の下の水流しを見ると、誰も私の外には此の栓から水を汲むものは無いらしく、すつかり乾ききつて居るのです。 私は旅の荷物も其ままに、アトリエを掃除する気にもならないので、家主の細君に挨拶に行つて聞くと、アトリエの持主の多くが出征した、セルビヤ人も先月兵隊になつた、日本人の外はあんまり居ない、それでも漸く日本人が帰つて来てくれて賑やかになつてよかつた、などと云ひました。 それから私は旅に汚れた襟だけを代へて街の様子を見ようと出掛けました。 気がつくと今日は基督降誕祭なのです。祭の日の市街の様子を見ようと、私はモンパルナスの方へ足を向けました。停車場から右ヘブールバールを通つてサン・ミツセルの通りを歩いて見ました。南の田舎で淋しいながらもクリスマスの前景気を見て来た私は、巴里の様子が今夜クリスマスだと云つても、別段田舎の街と異りは無い程度に、僅に菓子屋やお遺物の見世屋が少しづつ客を迎へて居るに過ぎない事を見たのです。例年ならば人出の多からう筈のモンパルナス辺がこの様子では、市民の心持もよく分りますが、それでも数月前動員令が下つてから、飛行機が飛んで来て、愈々巴里が危いと云ふことになつて、市街にはろくろく人通りも無くなり、窓は閉めきられ、見世ば閉ぢて一時死んだやうになつた巴里のことを思ふと、一寸歩いただけでは、戦争は何処にあるかと思ふ位に、賑やかになつたのを喜ぱぬ訳に往きません。 ツロトワールには昼間から女の姿も見えるし、外国人の姿も増しました。街の商店も殆んど閉めた家は無くなりました。戦争前より夜の時間潰しをやつた活動写真の前で、そこの男に聞くと、日曜の外昼間はやりません、夜は毎晩やりますと云ふのです。動員令の下つた当時盛んに地図や戦況を見に行つた角の店に行つて見ると、兵隊と女とを組み合せた甘物の絵端書や、カリカチユールの拙いのが一式で、其を買ひに来て居る五六人の人が立つていました。私は出来のよささうなカリカチユールの絵端書を五六枚と、家主へのクリスマスの遣物を少許り求めて、そろそろ暮れかかつた町をアトリエに帰りました。暮れかかつたと云つても時計を見ると未だ四時少し前なのですが、夏の日の永いのに反して冬の日の短いにも呆れます。クリスマスの晩方だといふのに街に人出の少いことや、何の催し物も遠慮されて居ることを知つたので、私は外で夜を更かす気にもなりませんでした。 芝居も二つ三つ開いています。テアトル、フランセーもプチカヂノも開くことになり、アカデミーも今少し経つと開くとか聞きました。日用品は石炭が高くなつた外、食料其の他の物価も大抵もと通りになりました。未だ博物館は開かないし、外の写生は出来難いので、画家達の不便はやつぱり同じなのですが、市民の心が落ちついて来たのと、夫が兵隊に出た為めに、或は情夫が出征した為めに妾は毎日の食事を得ることが出来ない、どうかモデルに使つて貰ひたいと云ふ若い女が多くなりました。政府から留守の家族に下す日々の僅な生活費だけでは足りないので、職を求めるものは随分多いのですが、中には素性のよくないものも随分ある様です。私の感冒もぢきに快くなるでせう。アトリエを掃除して、暫らく落ちついたら更に申上げることにします。 （大正四年二月二十八日・大阪毎日新聞） |
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